シナ近代史のポイント2 香港 銅鑼湾書店に思う。HK Causeway Bay bookseller

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今日は香港銅鑼湾書店(Causeway Bay book store)の李波氏の
疲れ切った姿の記者会見の報道を見た。

過去の密入国の罪である国に拘束されていたとのこと。
彼は英国籍を捨てるということだけを告げた。
あとは円満にということであった。

ちいさな書店が大きな波に飲まれているのであろうか。
毎日胸が張り裂けるような出来事ばかりだ。

さて、ご無沙汰したシナ近代史のポイントその2に参ろう。

私のシナ近代史の分析は前述の通り以下である。
近代シナ史は、清朝末期1800年代以降から現在(中華民国、
中華人民共和国成立した現在)までを定義した。

シナ近代史は3段階によって変化を行った。

1.洪秀全による太平天国の乱を契機とする体制変動を伴う農民宗教活動
  (1850年ごろ~1920年代まで)
2.蒋介石による北伐による中華概念の発生および国土の統一拡大
  (1920年ごろ~1978年)
 3.鄧小平による改革開放および社会主義市場経済による経済発展
   (1978年以降~現在にいたる)

 では1から行こう。
 洪秀全という人は広東省の人で太平天国の乱の首謀者ということだ。
 私も当然あったことはない。
 科挙合格のために勉強して夢破れたということである。

  広東省広州福源水村出身で後に官禄土布村に移った客家人。
  農村の読書人の家庭に生まれ科挙及第を目指していたが、
  1828年に県試と府試に失敗、1834年に院試に失敗、1837年に
  三度目の落第をしている。このときの屈辱で熱病となり病床に
  就いている[2]。その病床で、老人から7現世の妖魔を取り除く
  べく派遣したとの幻覚を見る。しかし科挙に執着していた
  洪秀全は6年後の道光23年(1843年)春に再度郷試に臨むも
  落第した。この時梁発の『勧世良言』の影響を受けた洪秀全は
  孔孟の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に
  終止符を打った。と浮きにある。

 さて、ここで、解説が必要となろう。広東省とはもちろん、中国の南
 である。広州福源水村とある。私の記憶では花県であり、現在の
 広州市花都区である。ここがポイントである。

 何がポイントかというと広州市および周辺の背景、特にアヘン戦争
 を知らないといけない。加えて広東語と客家を知らなければならない。
 
 広州市は以前の泥語の話でも申し上げたが、広東省の省都である。
 広東省ではもっとも発展している。加えて清朝後期からの外国
 との窓口であった夷館があった。面影としては日本の長崎の出島と
 同じ沙面島がある。江戸より遠く離れた長崎なら「夷」がいても
 影響はないだろうというのと同じことだ。

 懸命な読者は1840年のアヘン戦争を覚えているだろう。
 アヘン戦争のきっかけはこの広州を中心に行われた戦争で
 ある。もちろん、イギリス軍は天津も攻撃したが・・・・。

 彼が科挙の合格を目指していたところにアヘン戦争があった。
 アヘン戦争も細かく見ていくと、清朝がイギリスに敗れた戦争
 ではあったが、広州では広州人の奮闘によりほぼ撃退の
 ところまで行ったのである。

 しかし、清朝はイギリスに毅然と立ち向かった林則徐を遥か
 彼方の新疆ウイグル自治区に左遷しあっけなく降伏し、香港を
 差し出したのである。

 若き洪秀全も祖国?の不甲斐なさに血の沸き立つ思いであった
 と推測できる。

 一方、広州市の背景も申し上げよう。
 広州市はいわゆる広州語を話す人間がメインである。

 広州語は日本語では広東語としている。
 現在は広東省広州市周辺と広西壮族自治区および香港でメイン
 に話されている言語を指す。

 これに対して洪秀全は客家人とある。客家とはシナ北方から
 1000年ぐらい前に南下してきた新しいシナ人であり、よそ者と
 言う意味から客家と呼ぶ。これに対してもともとすんでいる人間を
 本地人と言う。客家人は客家語を話す。本地人は広東語を話す。

 現在でも香港や広州でも同様、客家語は嘲笑の対象である。
 広州客家語は普通話と広東語をミックスしたような言葉である。
 どちらもできるが、本地人および普通話を話す北方人の
 双方からも嘲笑される。

 加えて本地人と客家人との抗争は土客械闘(ときゃくかいとう)
 の歴史を勉強して欲しい。 話が脱線しそうなので元に戻す。

 洪秀全は客家である。広州市に住んでいる。それだけでも
 屈辱の人生であったのはうなづける。且つ、科挙の試験で
 度重なる落第だ。科挙の試験はかつての日本の官吏登用
 試験である。

 合格すれば将来および子孫までの繁栄が約束されるが、
 合格できなければただの頭でっかちだ。
 魯迅の孔乙己の作品をご覧あれ。これまた嘲笑の対象だ。

 祖国の屈辱的敗北 客家の屈辱 そして科挙の落第。
 そんな人間が清朝末期には多くはいたのである。
 その絶望的な人間が救いを求める。

 阿Q的精神的勝利ではどうにも埋めようもない
 絶望感は察するに余りある


 ここからの話は歴史的資料に余りあるので詳細は避けるが
 そういう絶望感が背景であったということを歴史というのは
 軽視していないか?
 
 この絶望的鬱屈の感情、言い換えれば原動力の洞察無しには、

 あの圧倒的な清朝に対してほぼ少数で立ち向かった、
 太平天国の乱に関しても、加えてなぜ、少数の広東人が
 南京まで占領しある一定期間独立を維持できたのか?
 という謎には答えられない。

 ということでこの絶望的鬱屈の感情は今どこにあるのだろう。
 銅鑼湾書店の李波氏の表情および言葉からは非常に
 絶望感が伝わってくるのは私だけであろうか・・・・・・・。

 また続きは明日以降に行こう。

 

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