天龍寺に行ってきました 2

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写真は目を細める(半眼?)SU-METALさん。本文とは殆ど関係なさそうですね。趣味の問題です。

さて、天龍寺に行きってきましたの第2回目です。天龍寺の綺麗な景色を見て、悩みがなくなればそれで良しとしましょうか。
すこしでも気分が良くなればそれはそれで良いではないですか。
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とはいえ、家に戻りまた日常生活に戻る。とするとまた悩みが起きてくる。心が乱れてくるでしょう。

さて、さて、とはいえ、私のブログ、つまり、ここでは大いに思考実験です。どっぷりと自分の精神世界を見つめましょう。

前回、困っている人がいると申し上げました。困っている人はなぜか、自分の状態は苦しい状態である。加えて、切羽詰まっているのだというのはわかるそうです。だから自分を助けて欲しいという。でもどうしたら良いかわからないと言いますね。

そうして、その人はなぜ、自分以外の人は困っていないのだろうと考えるそうですね。
でも、多くの仏教の教えの初歩ですが、こういう言い方があるそうですね。

子供が死んだ母がいた。釈迦にどうしたら良いか尋ねた。
釈迦は近所を回っておいで、周りに死んだ人がいないのならばお灯明をもらっておいで。

といったそうですね。正しくは忘れましたが・・・。

まぁそうなんですね。周りに死んだ人はいないというのはそうなんですね。
私の周りも、あなたの周りも死んだ人だらけですね。

では悩んでる人はどうでしょう?死んだ人は悩まないから良いですね。生きている人は悩み続けますね。むしろ悩みがない人はどうしましょうか?お花畑すぎで逆に大変なことになってしまうでしょうね。

まぁそんなこんなで周りにも悩んでいる人は沢山いるし実際は人間というのは毎日大なり小なり悩んでいるのですね。

精神的に追い詰めらるのは何も現代社会だけでは無いですね。むしろ現代社会の方が少ないのではと思いますよ。

この苦悩との戦いは!
安寧への希求は!

古代からのハズですよね。だから、物質文明や近代の先端科学の豊かさよりも、まずこの不安や苦悩を取り除いて欲しいと人類は希求したハズだと考えるのは普通ですよね。

でも彼ら困っている人はなぜか我々の先祖の人類は古代からどうやってこの苦しみから逃れようとしたのかとかどうやって戦おうとしてきたのかとか、安寧をどうやって獲得しようとしたのだろうかと疑問に持たないし関心を向けないみたいですね。

私も若い頃からそういうのは調べたことがありまして、詳しいことは忘れましたが、色々古代から中世から近世なりのいたるところで人類は戦いを強いられているのですね。

だから歴史教科書にもたくさん出てくるのですよね。
やはり古代では釈迦牟尼やそのお弟子さんが苦しみを取り除こうとした代表選手なのですね。

だったらそういうものを現代にも活かせば良いのではと思いますが、そうは簡単に問屋が卸しませんよね。
色々ごちゃごちゃ申し上げました。すみません。逆に心が乱れてしまいそうですね。とほほ。

結局、乱れた心が乱れなくなる状態を作り出すのは人類にとって最も難しい課題、難問だと私は思います。
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天龍寺の庭園は美しいです。でもこの庭園が美しければ美しい程、人類の苦悩との戦いが過酷だったことを物語るように私は感じるのですね。

そう思うのですよ。えっ!なぜですかって?
香港のボロボロビルの写真と対比してくださいね。

天龍寺とは逆さまです。けど、写真で言うとネガかポジかの違いだけのような気がしたからです。
銀塩も廃れたのでこの比喩は今後はあまり通じないでしょうが・・・。
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まぁ話はそれっぱなしで、長くなりましたので今日はこの辺にしましょうかね。

ではSee you!

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